6時に起きたが、既に長蛇の列であると伝書鳩が来たので秋葉原方面は断念。
二度寝してゆるゆるとお台場へ。 撮影禁止と言う事も有ってか、「目当て」で来ていると思しき客の数は少ない。 端の方ではあったが最前列に橋頭堡を確保してイベント開始を待つ。
先ず司会の折井あゆみが登場。 先日の東京タワーでは多少面窶れした感があったが、今日はそんな事も無く。
くすんだ水色のワンピースに七分丈の白いコートを羽織り、髪は大人びた感じのゆる巻きに。 爪先まで厚底になった自棄糞に高いピンヒールのサンダルで出演者との背丈を調整、秋元と同じくらいの高さになっていた。
「元AKB48の」とかそんな前置きは無しに「司会の折井あゆみです」。 台本通りなのかもしれないが、この辺りの潔さが折井らしく感じた。
曲紹介が有ってChocoloveさまご登場。 ヒールの高さで三人の身長を調整しているのが面白い。 156cmの中西が一番高いヒールで、164cmの宮澤は少し低いもの、166cmの秋元は更に低いものになっていて、左から秋元、中西、宮澤の順で並ぶと、丁度「凹」の字みたいになっている。 ご本尊の中西より、脇待の二人の方が上背が有るってのも面白い。
どうやって録音したのか判らぬ位に矢鱈滅ッ鱈キーの高い曲なので致し方無いと言えば致し方無いが、一応ワイヤレスマイクを持ってはいるものの生歌感はゼロに近い。 ほぼゼロ。 いや、ゼロ。
然し乍ら生歌感が無い分、無理をして歌っていないので動きや表情は実に良かった。 ジョン・レノンだったか、「コンサートは見に来るものだ、音楽なら家で聴いてくれ。」かなんか言っていたのを思い出した。
秋元にしても宮澤にしても、三階さんから漸く名題になった位の感じであり、CDの選抜メンバーに選ばれたところで並び大名くらいの役しか付かなかった訳で、脇だが良い役を貰えたのは喜ばしい。
歌が終わって喋る段になると、一旦掃けてマイクをワイヤレスからワイヤードに持ち替えて出て来た。 歌が終わったところでレヴェルを調整すれば良いだけの事だと思うのだが、ワイヤレスの方は完全なダミーマイクなのかもしれない。
上手の袖に居たケーブル捌きのお姉さんが出したり引いたり細かく仕事をしていたが、中西と宮澤が無頓着に踏んづけるので苦労していた。
Chocoloveたぁどう言う意味かとか、「明日は明日の君が生まれる」はどう言う曲かとか、スカルマンってのはどう言うアニメなのか、・・・てな感じの質問を折井が投げて3人が答える訳だが、秋元が宮澤に話を振って、ボケたところに適宜ツッコミを入れて話を膨らませていたのは良い仕事。
「AKB48とは何ぞや?」ってのを一見さんに噛んで含めて説明するコーナーでは、ビデオを流して、それを折井が説明しつつ努めて客観的に3人に話を振るが、素材が古いので折井本人がアップで映ったりする場面もあって一寸遣り難そうではあった。
中西を「りなティン」ではなく「里菜ちゃん」と呼ぶ折井と、折井を「あゆちゃん」と呼んでしまう中西の意識の違いが興味深い。
特製チョコ3つ、劇場の当日券3枚を賭けたジャンケン大会の初っ端に秋元が登場。 「○○(自粛)は最初にパーを出すの法則」に従い、秋元はパーを出さないと判断してグーを出したが、あろう事か秋元が出したのはパー。 小林じゃあるまいし・・・とボヤキつつ、成り行きを眺める。
当たり6枚のところに勝ち残りが4人。 チョコ3枚、チケット一枚持っていかれてチケットが都合2枚残ったが敗者復活戦は無し。 微妙な空気で終了。
銀座のシャネルにエリオット・アーウィットの写真展を見に行ったが、店に入らないとギャラリーにも行けない訳で、気後れして入り口で断念して帰宅。
まぁ私も好きなことを好きなように書き散らかしてはいるがそれなりに自分に課した規範のようなものは有って、それは「明らかな嘘は書かない」と言う事であったり「見聞きしたことに基づいて書く」と言う事だったりするのだけれど(「(笑)」も廃止した)、一番大切にしているのは「自分を安全圏に置いて他者を批判しない」「批評はしても審査はしない」と言う事だ。
鏡花小史の作で一番好きなものの中に、こんな一節がある。
一体、絵なぞと言うものは、批評はすべしだけれども、審査はすべきものでないのです。 神様ならば知らない事、同じ人間同士、批評は出来ても審査の出来よう訳がない。 するのは罰当たりです、僭越です。 ――されるものも不心得です。
(泉鏡花、泉鏡花集成13巻「芍薬の歌」、筑摩書房、1997年、291頁)
しかし、する者も世渡りなら、される者も世渡りで、それは可いとして、と言う一文が入る。)
権利と義務、自由と責任は表裏を成すものである訳だけれど、一昨日の日記に責任の方は放擲しておきながら自由を謳歌して悪口雑言罵詈讒謗、処刑断罪何でもござれの手合いからの誤読によるリンクが有ったので、むかっ腹ついでにこんな事を書いている。
ウンコを手掴みにしても、こちらの得になるような事は一つも無い。 手が汚れるばかりで他山の石にもならない。 説諭しても効き目は無いが、書かないと増長する。 書いても書かなくても不愉快なら、せめて精神衛生上良いほうに・・・。
当該リンク先はこれ。
インターネットだからリンクしたきゃ勝手にすりゃぁ良い。 しかし判らねぇものに何でリンクを張るかねぇ。 判らねぇなら読み解く努力をすりゃあ良い、知らない単語は調べりゃ良い。 調べて解らなきゃ訊きゃぁ良い。
読みたい奴だけ読みゃぁ良いんで、判り易く書いちゃ居ないかわり調べても判らないような書き方もしちゃいない。 碌に読み解く努力もせずにこう言う誤読をされるのは実に不愉快。
本人が来た(1)(2)ので対応してみる。
「多分」ではなく、あなたのことです。 明示しないで書くのは趣味じゃないんでリンク元も書いてある。
「一昨日の日記に(中略)リンクが有ったので」は正確に書くと「一昨日の日記にリンクで飛んできた痕跡があった」と言う事。 この日記はアクセス解析もしていないし、誰が読んでいるかも解らないのだけれど、何処から飛んできたかリンク元だけは表示されるようになっている。 リンクされたのなんざ書かれた頃から知ってはいて、不愉快は不愉快だったけれど、27日の日記にまだそこから飛んで来た痕跡があったのでここんとこの憤懣も含めてぶちまけてみたという訳です。
インターネットなのでリンクはご自由にどうぞ。 私の不愉快はリンクをされた事より斜め読みで誤読をされた事から来ていますから、リンクを外していただく必要もありません。
あなたの斜め読み癖は「責任の方は放擲」と書いたのを「責任の方は投擲」と返してくる事に象徴されていると思います。 私なんざ一回で済んでるからまだ良いけれど、牽強付会と言うか断章取義と言うか、捻じ曲げた解釈をした上で持論の補強に使われるのは気持ちの良いことでは有りません。
何が誤読なのかとのご質問ですが、ハンス・ヨアヒム・マルセイユはタバコを吸って噎せ返るような柔弱な優等生では無いと言う事です。
「責任の方は放擲」ってのは、「ピントのずれた視点で」と言うexcuseをつけて逃げ道を作った上での言動を指しての事です。 あなたの下衆な文体と不躾な物言いと安易な引用には辟易しているので、可能な限り読まないようにしていますが、アンテナ経由でどうしても目には入ってきます。 書いてすぐ消されたようですがコンサート時の秋元への謂れ無き罵言であったり、星野みちるがAKB48を踏み台にしようとした事への告悔に関する一文であったり、書き手の主観ばかりが先走って批判される側や読み手の痛みを顧慮していない。 他者への想像力が丸で欠如していると言わざるを得ません。 更にそれが事実基づいていないとなると、もはや致命的です。 学業と芸能活動の両立を志した戸島に「やる気が無いなら辞めちまえ」的な手紙を送りつけた輩と何ら変わらない。
アップロードする前に再度推敲なさる事をお奨めします。
今晩は。これは多分ぼくのことを言ってると思うのですが、その前提で書かせてもらいます。
まずは貴重なご意見ご指摘ありがとうございます。
次に幾つか質問です。「見てきたような嘘」や「処刑的断罪」に当たる部分はどれでしょうか? ぼくにはそう言われても分からないので対処しようがありません。それから「一昨日の日記」というのはいつのことでしょうか? 4月27日ですか? その日はこちらにはリンクを張ってないのですが、それとも「当該リンク先はこれ」の「これ」の日のことでしょうか? もしそうなら「一昨日の日記」はなにを指すのでしょうか? リンクが不愉快ならはずしますし、そうでない対処をお求めなら具体的にどうすれば良いのかお教え下さい。
それから「判らなきゃ」というのはなにをもってどうぼくが「判ってない」と判断されたのかも教えて下さい。判る判らないはそんなに重要なものだとは思わないですし、それを特に議論するつもりもありませんが、訊けば良いとのご指摘なので、訊かせてもらいたいと思います。「誤読」とのことですが、どう誤りで、また正はなにかも併せてお教え下さい。
「責任の方は投擲」と仰いますが、責任とはどういうことでしょうか? 文中にある、嘘は書かない、審査はしない、自分を安全圏に置かないとか、批判はしても審査はしないということでしょうか? もしそうなら、これも具体的にどれが嘘で、どれが審査で、どうすれば自分を安全圏に置かないということなのか、お教え下さい。多分墨田ペトリ堂さんは安全圏にいなく、ぼくが安全圏にいるということなのでしょうが、その違いは具体的にどこなのでしょう? 判らないので教えて下さい。
追記ですが、ぼくは現在なにをどう書いたらいいのか模索中ですので、ご意見はぜひ伺いたいし、参考にさせて頂きたいと思っています。
ブログというのも、長い間続けていくと、在り方が大きく変化していくので、そのつき合い方というか、対応がなかなか難しくなるものだなあと最近実感しております。具体的に言うと、以前は気軽に書いていたことでも、読んで下さる方が多くなれば、やはり責任というのは重くなると思うので、気軽には書けなくなったと言うことです。リンクだって、気軽に貼って良いのかどうか、躊躇われます。インターネットはリンクフリーというコモンセンスはあるにはあるようですが、やっぱりそれも確定されたラインというものでもないように思いますからね。
しかも難しいのは、このブログというやつは、過去ログが気軽に閲覧出来るので、無責任と言う程ではないにしろ、責任をあまり考えずに書いていた過去の文章にまで、後々ある種の責任が発生してきたりすることです。ワールドワイドウエブですので、一応全世界に向けて発信するつもりで最初から書いてはいるのですが、やはり実感としてそうはなかなか思えないですからね。そうした感覚なしに書いたおまえが悪いと言われればそれまでですが、なかなか難しさを感じております。
さらには、これは個人的な感慨でこちらに書くべきことではないかも知れませんが、ぼくは少々、最近頭に血が上っているところがあるのだと思います。ぼく自身、より多くの人に読んでもらいたいという欲望があるのですが、それにとらわれるあまり、多少自分を見失うところがあるのは自覚しております。ぼくは文章をあまり考えずに書くところがありますので、それもその一因になってたりすると思います。なので、ここらでいっぺんクールダウンし、スタイルを少しずつ変えて行けたらとも考えております。せっかくご指摘を頂いたので、これもなにかの機会と考え、あえてこのコメント欄に書かせて頂きました。
お早うございます。早速のレスポンスありがとうございます。
「一昨日」の意味、了解しました。
「放擲」と「投擲」の間違い、失礼いたしました。これでは斜め読みのそしりは免れませんね。以降、気をつけるようにいたします。
「牽強付会と言うか断章取義と言うか、捻じ曲げた解釈をした上で持論の補強に使われるのは気持ちの良いことでは有りません」
確かにそうですね。そこのところの配慮に欠けていました。たぶん墨田ペトリ堂さんもそうですし、他にぼくが引用させてもらった方もそうだと思うのですが、テキストというのは、アップロードした時点である種の独立したものとして一人歩きをするのは仕方ないと思っているところがあるので、ぼくの引用に関しても甘んじて受け止めて下さるところがあったのでしょう。しかし、やはり「牽強付会」や「断章主義」は卑怯ですし、醜い上に気持ちの良いものではないですからね。ぼくの文章がもしそうなっていたら謝った上になんらかの対処をしたいと思います。釈明もかねて言わせてもらうと、そうした卑怯さ、醜さを自覚しながら書いたことはないので、自分では具体的にどの箇所がどうというのは判りません。ただ、もし結果的にそうなっていたら迂闊でした。そうだと判る箇所があれば、ご指摘頂きたいと思います。
「誤読」の件は了解しました。ハンス・ヨアヒム・マルセイユは知りませんでしたがWikipedeiaで見ました。しばらく考えてようやく意味が分かりました。なるほど上手いたとえですね。墨田ペトリ堂さんの文意も以前よりよく理解出来るようになりました。そのことが聞けて良かったです。ありがとうございます。
「ピントのずれた視点で」という言い回しは、こんなことを言うのは無粋ですが、半分は本気で、残りは洒落で、また面白がって書いているところなので、そのようなとらえられ方をしているとは想像もしてませんでした。しかし、これがexcuseになるでしょうか? 誰も「あいつはピントがずれてるからなに書いても良いよな」とは考えないでしょうし、ぼくも「おれはピントがずれてるからなに書いてもいいんだぜ」と思ったことは一度もありません。しかし、その様なとらえられ方をしているというのは判りました。また、その他の箇所にも、責任を放擲していると感じられる箇所があるということでしょう。これも以降、気をつけたいと思います。ぼくは責任を放擲したいとは少しも思っていません。
「下衆な文体と不躾な物言いと安易な引用」
「下衆な文体」はどのように下衆なのか、具体的にお教え下さるとありがたいです。「不躾な物言い」に関しては、何度か言及していますが、自覚してあえてやっているところがあります。「安易な引用」については確かに安易だったと反省し、以降はそうならないよう気をつけたいと思います。
「コンサートの時の秋元への謂れ無き罵言」
これはぼくは「謂れ無き罵言」であったとは思ってません。ただ、デリカシーが欠如していると思ったので消しました。
「星野みちるがAKB48を踏み台にしようとした事への告悔に関する一文」
これに対する解釈も、実際議論が分かれるところだと思いますが、いかがでしょう? ぼくのようなとらえ方が必ずしも「書き手の主観ばかりが先走って」いるものとばかりは思えないのですが。また誤解なきよう申し上げますと、ぼくのようなとらえ方が星野への「罵言」になるともぼくは思っていません。ぼくはむしろ感心して敬意をもってそう書いたつもりですし、またそうとらえて下さる方もいらっしゃると思います。これは墨田ペトリ堂さんの反論を踏まえた上で、再度顧慮した上での意見です。しかし墨田ペトリ堂さんのようなとらえ方をされる人がいるというのも判りました。今後はそうした方への配慮も含め、どう書けばいいか考えていきたいと思います。
「批判される側や読み手の痛みを顧慮していない」
「ない」と言われると、そんなことはないと断言出来ますが、足りなかったと言われると、そうかも知れないと思うところがあります。「あらゆる人が読む可能性がある」ということを、ぼくはやはりあまり顧慮してはいませんでした。反省し、以降はそこの部分に気をつけたいと思います。
「他者への想像力が丸で欠如していると言わざるを得ません」
これも、「丸で」と言われるとそうではないとはっきり反論出来ますが、足りなかったと言われるとそうだったと思います。さらにいえば、ぼくはやはり、「あらゆる人が読む可能性がある」ということに関しては、ほんとんど考慮してませんでした。ファンレターとブログでは意味合いが違うと思ってましたが、戸島云々のくだりに例えられると言うことは、それと同じくらいの責任が発生するという見方を少なくとも墨田ペトリ堂さんはされたということですよね。これに関しては重く受け止めなければならないと思いました。ありがとうございます。