パソコンの前に座ってああでもないこうでもない、と、いぢくりまわして日が暮れた。
その時々で読んでいる本に引きずられてしまうので自分の文体と呼べる様なものは無いのだけれど、それにしても最近キレの無い文章になっている様な気がしてならない。
脳味噌に考える力が無くなって来ている様な気がする。
病院で検査をする為、今日一日食事制限。 朝、お粥、梅ふりかけ、田舎煮、味噌汁、プリン。 昼、ビスケット四つ、コーンスープ。 間食、飴2個。 その間、ジャスミン茶2リットル。
これだけで一日働いた。
帰宅してから夕食、粥、味噌汁。 その後、検便、そして下剤服用。
空腹は良いが便意がつらい。
昼頃起き出して昼飯。 冷蔵庫のクズ野菜とベーコンとチーズでリゾット・・・の様な物。 喰い終わってからつらつら時刻表を見ていたら17:06上野発黒磯行きに乗ればその日のうちに仙台に着ける事が判明。 時計を見ると15:46。 何だかめんどくさくなってひとっ風呂浴びてから適当に荷造りをして上野へ。 売店でチキンカツサンド、缶チューハイ、ジャワティ(瓶)締めて¥520-。
黒磯と福島で乗り換えだったのだけれど、それぞれ3分程しか時間が無く、宿泊場所の手配もへったくれも無いまま仙台着。 何とかナニやら取込み中のかみやんを捕まえて寝る場所は確保したものの、なにせ取込み中なので連絡が来る迄街の中をぶらぶらする事にした。
広瀬通りの吉野屋で並。 ¥400-。
住民の反対運動やら、一斉取り締まりやらでなくなるかとも思われたアーケードのギター小僧たちはどっこい生き残っていた。 一番町のフォーラスのあたりは国分町から流れてくる酔っ払いやヤンキーが多い所為かあまりいなくて、藤崎の前辺りから大町のアーケードに一番多いようだ。 しかしクリスロード→ハビナ名掛丁と駅に近づくにつれて人通りが減り、暗くなるにつれてギター弾きも減って行く。 やはり明るくて人通りも多い東二番丁から藤崎にかけての大町のアーケードが一番多く、50mおき位、つまりお互いの音が干渉しない程度の間隔を空けて陣取っている。
やはりゆずもどきのさわやか(風)青年で、オリジナルの物をやっていそうな奴はいなかった。 琵琶をかき鳴らして平家物語とか三上寛とかそこ迄は言わないから、せめて拓郎くらいやってほしいものだ。 同じ事を皆でやっていて楽しいのだろうか。 詰まらん。
客のいないやつらは淡々と、客・・・と言うかグルーピーみたいなのを抱えているやつらはそれをいじったりリクエストを聞いたりしながら、街灯の下で明るくさわやか(風)にやる者、暗がりで自分の世界に入る者、色々だった。 ・・・とここまで書いたところで道路向いにニット帽をかぶったにいちゃんがどっかと腰を下ろした。 何を始めるのかと思ったらブルースギター、歌無し。 なかなか上手いけど誰も立ち止まらない。 上手い下手と客の数は比例しない。
変わった頃から降り出した雨は段々強くなり、アーケードの屋根でパラパラ音を立てている。 気温も下がって来たようだ。 座っている奴より立ってギターを弾いている奴の方が多いのは寒いからなのかも知れない。 今日はいつもより厚着をして野宿対応で来ているのだけれど石の上に直に腰掛けていると流石にケツから冷えてくる。 寒いので少し動く事にして駅へ移動。
交差点で無気味なものを見た。 和服らしき物を身にまとい、紺色の風呂敷状のものを尼さんかぶりにした婆さんが、風呂敷包みを篭に満載した自転車をからころ押していた。 何故にからころ音がするのかと言えば後ろの車輪にはタイヤもチューブも何も無いからなのだけれど、これがまた夢野久作的でどうにも気味が悪かった。
構内は0:00〜4:00迄閉鎖。 西口地下自由通路は0:10〜5:25迄閉鎖。 只ひとつ解放されている駅からams西武への地下道には先住民の家屋が立ち並んでおり、香しい匂いが立ち篭めていて長時間そこにいるのはかなりきつい。 もと来た道を引き返して藤崎の前あたりで座っていたら漸く電話が入りかみやん邸へ。
起きられず。
九時に目覚ましをセットしておいたのだけれど見事に二度寝。 気が付くと何故か部屋の中にインターナショナルが響き渡っていて、よくよく考えたら自分の電話器の着信音だった。
あたふたと着替えて、車で駅迄送ってもらって六条と待ち合わせ。
例によって例のごとく、日がな一日ぶらぶらして4時半の電車で東京へ。
いつもと違って本当にさようなら。
Jane Birkin “je suis venu te dire que je men vais”(笑)
年末調整が出たのでうさ晴らしに料理。 牛スジを水から煮て、火が通ったら一旦上げて一口大に。 柔らかくなる迄ひたすら煮込んでカレーに。
マグロの切り落としはスジに沿って包丁を入れつつ刺身くらいの大きさに。 鍋にお湯を沸かして酒をたらぁ〜り、おろし生姜を少し。 そこにマグロと大量の葱を入れて暫く煮る。 生煮えも旨いんだけど今日はおかずなのできっちり火を通す。 醤油で味をととのえて出来上がり。
今日はビールではなく日本酒。 菊水の純米吟醸。
料理。 自棄料理。
蕪は葉をとって半分に割ってから2〜3mm厚に。 セロリも葉をとって2〜3mm厚に。 赤ピーマンは半分に割って種を取ってから縦に5mm厚に。
セロリの葉を何枚かみじん切りにしてボールに。 無印の「イタリアンハーブミックス」も適当に。 これは楽なんだけど、なければバジル、オレガノなんぞを適当に。 そこにオリーブ油とワインビネガーと塩・胡椒を足して攪拌。 酢と油は通常2:1なのだけれど、今日は和えてから暫く味を馴染ませるので油の割合と塩は多めに。
全部をざくざく和えて冷蔵庫で馴染ませる。
鰹は1・くらい(一寸厚め)に切って皿に隙間無く並べる。
酒と醤油を適当に混ぜてそこにおろし生姜とにんにくを包丁の腹で潰してからみじん切りにした奴を混ぜる。
そいつを鰹の上にぶちまけて冷蔵庫で馴染ませる。
今日はビール。 軽井沢高原ビールとヨナヨナエール。
多少気が晴れた。
佃島へ。 プリズムの客(廃人数名)がT中C徳氏らのやっているカメラのクラブでロシア物についての講演をするので冷やかしに行った。 今、兎に角金が無いのでちゃりんこで移動。 すっ飛ばす事四十分、マンションには着いたが集会場が何処なんだか判らない。 スーパーの警備員に訪ねると逆に「いや、判りません。 さっきから何度も聞かれるんですが今日は何か有るんですか?」等と言われる始末。 某カメラ屋の親爺を見つけて後をつけて、漸く会場に潜り込むと、冷やかし仲間のプリズムの客は余りの場違い感に部屋の外で固まっていた。
会場内には浜松町のカメラ屋の親爺だの浅草の坊さんだの雑誌等で良く見る顔がちらほらどころではなくひしめいており、我々プロレタリアートはこそこと後ろの方に陣取って始まるのを待つことにした。
まず一人目の講師が出てロシアンフォーカスとは如何なる団体なのかを説明。 然し乍ら「C徳先生」であるとか「A英先生」とか矢鱈とへりくだった物言いをするのは頂けなかった。 有名・無名、著書の有る無しはあっても趣味人としては同等。 むしろそれをメシの種にしていないだけこちらの方が純粋であるとすら言えると思うのだが・・・。
次に出て来た講師がまた凄かった。 ロシアカメラのマウントの分類をホワイトホ−ドで説明するのだけれど、吶々と説明しつつキリル文字(ЖЫЙФМй←こういう奴)をスラスラと書いて行くさまは感動的ですらあった。
3番目はひげ面の巨人が戦前型フェドのマウントの特異性を資料と実測データを交えて説明。 某研究所の職員だけの事は合って有無を言わせぬ説得力であった。
しんがりに控えしは流しの理科教師、白衣を着て登場。 板書も抗議も流石に本物であった。 スターリンが敗戦ドイツから技術者と工作機械と原材料をぶん取ってきて、その遺産を食いつぶして来たロシアの光学産業の歴史が面白可笑しく語られた。
その後談笑しつつビールを呑みつつ、こそこそとC徳氏に接近して仙台に有った某カメラ屋の親爺の如何にも胡散臭い名刺を見せて「この爺ぃ知ってますか?」と聞いてみた。
すると「あぁ、知ってます知ってます。 何度か御馳走になりました。」・・・とのこと。
で、親爺が「俺の名刺を持って行けばT京カメラ倶楽部なんざ簡単に入れる」と豪語していたことを話すと「ああもう是非入って下さい。」と笑わずに言った。 何だか恐かった。
念のためT村A英氏にも聞いてみると「ああ、C徳さんに何度か連れて行ってもらいましたよ。」「お亡くなりになられたのですか?」・・・っておいおい、死んで欲しいのか。 「昔は代々木で店をやっていたらしいですね。」と言っていたことから見て昔の事は知らないらしい。
・・・こんな感じで何人かに謎のプレッシャーをかけて遊びつつ、こちらの正体は明かさずに会場を出た。
雨が降って来たのでちゃりんこは打っちゃらかして皆と一緒に東京駅へ。 他の人たちは東京駅の中で打ち上げをやったのだけれど、私は中野へ移動してパルテに顔を出した後友達の車で両国へ。 何でも両国駅の南口に旨い立ち喰いがあるってんてそこへ行こうとしたのだけれど、両国に近づくと道路が以上に混んでいる。 なぁんだろうと思ったら丁度初場所千秋楽結びの一番が終わった頃合。
「あぁ、こりゃダメだ」ってんで葛飾区は青砥へ移動。 ここの駅前には物凄いハンバーガー屋が有るとの事で、その「バーガーランド」なる店で晩飯。 話通りの物凄い店で、満腹になったところで自分の家の前を素通りして佃島へ。 雨もやんだのでちゃりんこに乗って帰っ来た。
久しぶりに有意義に休日を浪費する事が出来た。 ・・・って話を友達にしたら「おい、浪費して喜んでどうする。」と言われてしまったのだけれど、金が無いんだから時間くらい浪費したいじゃ無いか。
絶食して朝ふらふらしながら病院へ。 今日はエコー&胃カメラプレイ。
受付をしてから待たされる事一時間、先ずはエコー。 腹全体がぜりーでぬるぬるになったほかは何事もなく終了。
さらに待たされる事一時間、ついに胃カメラ。 クソ苦い痲酔液でうがいをした後、注射を一本打たれていよいよ本番。 なにやらマウスピースの様なものを銜えさせられ「つばを飲み込もうとすると絶対にむせますから、絶対につばは飲み込まないで下さい。」と念を押されつつ胃カメラを挿入。 猛烈な吐き気と唾をのみ見たい衝動にかられたか、なんとか耐えて終了。
脂肪肝と高脂血症が問題ではあったのだけれど、他は何も問題無く、昨年の暮れから続く下痢と脂肪肝の元となった過食はどちらもストレスから来るものであると言う結論に達した。 泰山鳴動して鼠一匹、結局すべてはストレスであった。
朝から飲まず喰わずだったので新宿に行って博多天神でラーメン、もやし、替え玉×2。
ツタヤで椎名林檎のマキシシングル2枚購入。 相変わらずの録でもないデザインのジャケットとやさぐれた歌声。 録音・アレンジ・ミックスも相変わらずの凝り方。 金を払うだけの価値は有るのだけれど、マキシシングル4枚出すならアルバムにしてくれれば金銭的にはかなり助かるのだが・・・。
それぞれ一曲づつカバー物が収録されていて、そのアレンジとか歌い方とかも良いのだけれど、印税収入を度外視して好きなものを歌っている姿勢は偉いと思う。
高田の馬場へ移動してス◯キカメラでオリンパスのレンズを物色。 そのあと爺ぃの家へお年始の挨拶。
いきなり「おまえは年賀状と言うものを出さないのか?。わしは今でも八十枚から出しているぞ、帰ってくるのは七十五枚くらいだけれど。」「年賀状一つでも世間は広がるんだ、ちゃんと出しなさい」とお説教。
流石に「世間を狭くする為に年賀状制度を廃止しました。」とは言えないので「はいはい、まったく其のとうりでございます。」と慎んで拝聴した。
ちなみに爺さんは1902年生まれ、ライト兄弟の初飛行が1903年だから飛行機よりも古い。
ひたひたに胃カメラの話をしたら「どうだった?」と聞かれたので「いやいや、これがとんだ『ディープ・スロート』で・・・」と言ったら
「なんであんたはそんな古いエロ映画を知ってるんだ!!」
・・・と言われてしまった。 原作迄持っている様な奴にそんな事を言われる筋合いはない。
生徒会の時の先輩の結婚式の撮影。 昼から式場へ。
今日の機材は、ミノルタα7000、35-80mm/f4.5-5.6ズーム、専用ストロボ。
フジカST605、マミヤ21mm/f4、ペンタックス・オートタクマー35mm/f2.3、ペトリ55mm/f1.8、ジュピター9 85mm/f2、ゼニットIR 100mm/f1.5。
ライカD−III、ズマール50mm/f2。 ローライコード トリオター75mm/f3.8。
使用フィルムは35mmがフジカラーAce800とアグファAPX400(モノクロ)、ブローニーがコニカセンチュリア400。
受付で暫く撮影し、披露宴の会場を下見。 ・・・とやっているうちに式が始まりモニターで見物。 新婦が角隠しで見事に角を隠して澄ましている反面、新郎はあからさまに挙動不審で目が泳いであらぬ所を見ている。 式が終わってから親類やら友人やら何やらと記念撮影、其の後披露宴へ。
入場だ、祝辞だ、経歴紹介だ、乾杯だ、余興だ、お色直し×2だ、きゃんどるさぁびすだ、なんだかんだを一人で撮るのはかなり辛い。 おまけに会場の雑感やら出席者のスナップやら・・・。 席も料理も無しにしてもらったので其の事だけが救いだった。 飲み食いしてるヒマなんざありゃしない。 先輩に寿司2個とウニの刺身を恵んでもらったいがい何も飲み食いせずひたすらお仕事に明け暮れた。
お色直しに消えたはずの新郎が素っ裸に紙おむつ一丁で登場してクラッカーを口の中でぶっ放したり、身体中に洗濯ばさみをつけて一気にむしり取ったり、爆竹を紙おむつの中で炸裂させたり。 其の後の余興の親戚が動揺してしどろもどろになったりしつつも滞りなく披露宴は終わり、私の仕事の半分が漸く終わった。
ここまでで36枚撮り8本。 其の後二次会で3本、3次会で2本。 モノクロ1本。 ブローニー1本。
計15本。
午後十一時半過ぎ、漸く3次会が終わってお役御免となった私はよれよれになって帰宅した。