区議会議員選挙ってのは無闇に候補者が多くて、一日中ウルサイので閉口する。 しかし、何故公明党の候補者は自党の政策の話もしないで共産党の悪口ばかり言っているのだろう?。
前回の選挙の時も同じような物だったらしい。 4年前の4/18の日記に似たようなことが書いてあった。
暗室作業の日。 明日はりえくらぶ撮影会。
仕事が予想外に早く終ったので秋葉原へ。
公式ブログでチケット残数速報が出るようになったのだけれど、昨日のAチームが売切れかかっていた5時の時点で、今日のKチームは100枚出ていなかった。 罰ゲームみてぇだなぁ・・・と思ったが、最後の一時間で売れに売れて、6時半までに203枚売れていた。
仕事に目途をつけてから来てもチケットが買えて、良い席で見られる可能性も有るのは嬉しい。 劇場運営する側としては毎日大入りが理想なのだと思うが、200人くらいだと一番後ろからでも客の頭越しに全体が見渡せるので、観る側としてはこれくらいの入りが丁度良い。
増田有華が足を傷めた為、自己紹介前からユニットコーナーの担当曲迄の三曲のみ出演。 開演前に本多芸能からお知らせがあったが、公演中に本人は触れず。 本人の口から言った方が良いとは思うが、思ったより元気そうで良かった。
今日から曲紹介コーナーがお題MCに変わった。 遅きに失した感はあるが、これは嬉しかった。 あの曲紹介の居たたまれなさと言ったら無かった。
観るたびに良くなっているのを感じている。 纏りも繋がりも良くなってきている。 しかし、繋がりを寸断したり、場の空気を荒んだものにしているのを自覚していないのが居て、毎度の事乍ら気が滅入る。 そんな訳で、客の反応にも悪意のあるものが増えた。
Aチームの戸島と増山が観に来ていたらしい。
今日も良い汗をかいていた。 アンコールの「AKB48」で元気に腕を振り回して踊る秋元の横に小柄な小野えれぴょん。 轟音を上げて腕が至近距離を通過するたびに怯えていた。
毎週見て来たような嘘を並べてきた擬似歴史読み物が漸く終わった。
担当編集者の自己陶酔に満ちた贅言がツイッターで垂れ流されているので、興味のある向きはどうぞ。
こちら
まぁ盗人猛々しいと言うか何と言うか。
動機は結果に対する言い訳にはならない。 45億年遡って先カンブリア期から人生やり直していただきたい。
先週の野呂と大堀の語った中でもう一つ癪に障ったのは浦野一美を腐したこのくだり
野呂 写真と全然違って「ええー??」って。 スッピンだったし。 なんか変な鴨のTシャツを着てて、「鴨!ええー??(笑)」って。
大堀 でも、浦野はその後チームBに移って若返ったし、今やSDN48で私たちと仲間になりました。
野呂 うん。 "奇跡の人"だよね。
この鴨のイラストの入ったTシャツは、AKB48として始めての大型タイアップであったNTTドコモのテレビ電話のキャラクター「アエルカモ」の物だと思われ、浦野一美以外にもレッスン着にしている連中は居た。
編集者が「過去を知る者」なら、この辺り注釈の一つも付けて然るべきであろう。
そもそもこの頃の浦野は楚々としたお嬢様然とした立ち居振る舞いで、被った猫の下のキャラクターはまだ公にはなっていなかったし、年寄り扱いされ始めたのもチームBに移ってからであり、ぽっと出が古参面してしたり顔ってのをこう言う形で目にするとは、いやはやなんとも驚いた。
※アエルカモについてはこのあたり参照のこと。
>エイプリルさん
「現場を知らずしてakbを語るな」と言うか、知らないなら知らない前提で書けば良いのです。
見て来たような嘘を書き連ね、見て来た者なら外さないあれこれがスッコ抜ける。 実に酷い連載でした。
>@香菜さん
何をしに行ったのかは判りませんが、少なくともグラビアでは無いようです。
最近の小林はブログとモバイルメールを上手く使い分けて情報発信しており、どちらも楽しく読んでおります。
デッチアゲ・ヒストリーも掉尾。 最後は余計な解釈を廃し、聞き書きに徹して終わった。 何故始めからそうしなかったのか。
Marcus Aurelius Antoninus の自省録にこうある
戸島花のヤフー・ファンクラブが、本日を以って終了。
新たにブログはやらないとの事なので、しばしお別れ。
HKT48に所属する松岡菜摘の初写真集、撮影は佐藤裕之。
期待はしていなかったと言うか、そもそも買うつもりもなかったのだけれど、積んであった週刊ヤングジャンプ 2015 43号のグラビアを見直して驚いた。 これは買わねばならない。
セーラー服で始まり、セーラー服で終わる構成。 その間に水着やランジェリーも含めた様々な衣装で撮ったカットが挟まる。
水着やランジェリーは体形には合わせていて、布面積が小さめな物もあるが穏当なデザイン。 煽情的なポーズを取らせる訳でもなく、Les sucettes的な暗喩を込めた小道具を使わせる事も無い。
松岡菜摘は撮られるにあたって「撮られるに任せる」と言うか、感情を露わにしない。
時折笑顔は見せるが、機嫌が良いのか悪いのか、楽しいのか楽しくないのか、眠いのか。
どうとでも解釈できる曖昧な表情が大半を占める。
主張はしないのだけれど、その分よく分からない負圧の様なものが働いていて、知らず知らずのうちに引き込まれてしまう。
Femme fataleと言う物は、実に意外極まるところに転がっているもので、斯く言う私も松岡菜摘に躓いて転んで途方に暮れているところである。
何が良いのか何処が好きなのか、説明らしい説明をする事が出来ないのだけれど、説明のつかないもどかしさに、答えを探してまたページを繰ってしまう。
おそらくそうさせるような意思が、この写真集を作り上げる際にハンバート・ハンバート氏によって込められていて、それに我々は踊らされるのだと思う。
さっきまでは好きでも嫌いでもなかった松岡菜摘を、最後のページをめくる頃には好きになっている。
まだ四分の一も終わっていないが、今年一番の悩ましい写真集。